漆のお椀
先日仕事がひと段落して外に出ると、蝉が鳴き始めていることに気がついた。ああもうそんな時期になったんだなと感じながら、ふと、幼少の頃、夏休みに母方の祖母の家で過ごしたことを思い出した。母方の実家は鹿児島の桜島のふもと、つまり超田舎で、割と古風な家庭だった。そのため、きっちりしているところはきっちりしていて、家のルールや食事時の作法ではよく怒られた記憶がある。
そんなおばあちゃんちの食卓では、お味噌汁は漆のお椀だった。もちろん当時は、器が何でできているかは気にもしなかったが、思い返してみると今でも、手に持った感触をふくめ、なんとなく漆の器のことを覚えている。
夏の気配に誘われてそんなことを思い出して、息子の食事事情に考えが及ぶ。
子ども、特に未満児の食事は制御不能なことこの上なしで、叩く、投げる、ひっくり返す、落とすは毎食のことである。いつの間にか家の食器はどんどん丈夫で軽いプラスチックに置き換えられていった。実際、子どもが今使っている食器は、全てプラスチックだ。
そこでふと思い立ち、全部は無理だが、息子の食器のなかでお味噌汁のお椀を漆に変えてみた。ネット時代はこういう時に本当に便利だ。暴れ回る子どもを連れて市内の食器の店に行くなんて、考えただけで鳥肌が立つ。数日後、画面で見るより何倍も素敵な漆のお椀が届いた。
まだ使い始めてそんなに時間は経っていないが、息子はその漆の器が大切なもの、と何となくわかっているのか少し丁寧に扱っている(ように見える)。食器は使う人の人格の一部になる。どこかで聞いたことがある言葉だけど、あながち間違いではない気がする。というのは親の欲目。
夏の暑い日のおばあちゃんちの定番だった、茄子の入った冷たいお味噌汁、また飲みたいな。
おばあちゃん、ありがとう。